物理的な存在か、精神的な存在か |
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ヒロトの事をさておいて、ここに、少しの間を挟まなければならなくなった
かくあるべき親というものを追求しつつその華麗なる理想を具体化せんとしたこの企画において その考察の歩を進めながらも私たち親は、一つの「普通」として ここに、認識しておかなければならないことがあるからだ 狙いとすれば、「行為としての親」と「本質的な親」との違いについて、となるかもしれないが・・・ 私たち親は、普通、普段から、子どもに対し、人として、 固有でありかつ独立した特別な人格者たるべく人の理想というものを見せつけなければならないものである あるいはそれを意識しつつ それを自らに投射し演じるものであるとした気概をもたなければならないものである・・・ しかしほとんどの親は 「行為としての親」を施行しているだけなのだ 「行為としての親」 然るにこれが「普通の親」であるのだが・・・ では、親とは何かという事から考察し、このことを整理してみよう − 親とは何か・・・ それはまず、役目というものに投影されてくる つまり親とは、子どもを 子どものその成長に応じた社会的な規範に参加させるという義務を施行する、当該者であるとなるだろう・・・ 学校に行かせる、という事がその一つであるならば 子どもにそれを行わせる主体的な存在が親であり あるいはそこから派生する様々な事項(朝食を食べさせる・用品を購入する・宿題をみる等)をこなす「人」がそれとなる であるならば「親の能力」とした観点でこれを覗くなら この、親である事の義務が消化されてゆく過程に於ける 他者との比較的かつ相対的なレベルのなかにある優劣 (行かせる学校の内容や持ち物、塾や習い事をさせるか否か等)がそれに値することとなり あるいはそこに取り組む姿勢に依拠されることになる 衣食住の供与とその内容の充実 それが親の役目であるのだと・・・ ・・・ が、しかしである それをのみ価値とする親は 単にそれらの業務をこなす事が求められているという意識の 延長線より以上の意識をもつ「必要」を知ることがなく あるいは特別な人格を自らに意識しつつそれらをこなす必要性も感じないものである その時々を対応しつつ子どもと生きる、その時々に垣間見せる生活上の権限者・・・ それが親であり、それが親の範疇であるのだと 多くの親がそうであり それが現実なのである・・・ ・・・ ただし その様な日常の煩雑な事柄を以って中心とする親は 自らの人間性を直に出しつつ子どもとの生活を送るとした傾向を顕著にみせるものであり よって対面した、行うべき行為をこなし続ける「自分」を、超える事が出来なくなる ここに反映されるのは精神性なのである。が 「親」という「業務」を施行する、「立場を主体として成立する個人」の視野には、精神性は写らない 親が一個の人格を超えようとせずして自我のまま子育てをするから、子どもの内容(精神)も育たない 然るに、これを以って行為の親と呼び あるいは 「行為としての親」というものを土台としてその範疇を超えることなく過ごす親が語る「教育」とは 教育ではなく「飼育」のこととなるのである ・・・ 本質的(理想的)な親は 自らを素直に素地として認め しかしその人間性を常に見つめつつ一個の独立した人格としてその上に、もう一つの人格(親)を、創る それが本質的な親の事であり あるいは 理想や、子どもとの接し方等とした、つまり 親とはかくあるべきであるとした様な事柄も、この気概の上に成立し始める 子どもから見た親というものは ただ単なる一つの人格なのであり つまり親と言えども子供にしてみれば、一人の「人間」なのである 行為としての親の能力は 自戒なくして無益に終わるのだ ・・・ 自らを上げ、その向上により上塗りされてゆく人間性を以って親たらしめんと さかのぼるが、つまり本質的な「親の能力」とは その人の人間としての、内的な能力(人格)を示唆するべきなのである |
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