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<feed version="0.3" xml:lang="ja" xmlns="http://purl.org/atom/ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"><title>親学ブログ</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://oyagaku.j-888.com/" /><modified>2007-07-14T23:13:49+09:00</modified><tagline>親学がブログになりました。
メインコンテンツを凌ぐ内容で必ず充実させてみます。</tagline><generator url="http://jugem.cc/">JUGEM</generator><entry><title>物理的な存在か、精神的な存在か</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://oyagaku.j-888.com/?eid=615311" /><id>http://oyagaku.j-888.com/?eid=615311</id><issued>2007-07-14T23:08:53+09:00</issued><modified>2007-07-14T14:08:53Z</modified><created>2007-07-14T14:08:53Z</created><summary>ヒロトの事をさておいて、ここに、少しの間を挟まなければならなくなった
かくあるべき親というものを追求しつつその華麗なる理想を具体化せんとしたこの企画において
その考察の歩を進めながらも私たち親は、一つの「普通」として
ここに、認識しておかなければならな...</summary><author><name>oyagaku</name></author><dc:subject>教育</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[ヒロトの事をさておいて、ここに、少しの間を挟まなければならなくなった<br />
かくあるべき親というものを追求しつつその華麗なる理想を具体化せんとしたこの企画において<br />
その考察の歩を進めながらも私たち親は、一つの「普通」として<br />
ここに、認識しておかなければならないことがあるからだ<br />
狙いとすれば、「行為としての親」と「本質的な親」との違いについて、となるかもしれないが・・・<br />
<br />
私たち親は、普通、普段から、子どもに対し、人として、<br />
固有でありかつ独立した特別な人格者たるべく人の理想というものを見せつけなければならないものである<br />
あるいはそれを意識しつつ<br />
それを自らに投射し演じるものであるとした気概をもたなければならないものである・・・<br />
しかしほとんどの親は<br />
「行為としての親」を施行しているだけなのだ<br />
「行為としての親」<br />
然るにこれが「普通の親」であるのだが・・・<br />
では、親とは何かという事から考察し、このことを整理してみよう<br />
<br />
−<br />
<br />
親とは何か・・・<br />
それはまず、役目というものに投影されてくる<br />
つまり親とは、子どもを<br />
子どものその成長に応じた社会的な規範に参加させるという義務を施行する、当該者であるとなるだろう・・・<br />
<br />
学校に行かせる、という事がその一つであるならば<br />
子どもにそれを行わせる主体的な存在が親であり<br />
あるいはそこから派生する様々な事項（朝食を食べさせる・用品を購入する・宿題をみる等）をこなす「人」がそれとなる<br />
<br />
であるならば「親の能力」とした観点でこれを覗くなら<br />
この、親である事の義務が消化されてゆく過程に於ける<br />
他者との比較的かつ相対的なレベルのなかにある優劣<br />
（行かせる学校の内容や持ち物、塾や習い事をさせるか否か等）がそれに値することとなり<br />
あるいはそこに取り組む姿勢に依拠されることになる<br />
衣食住の供与とその内容の充実<br />
それが親の役目であるのだと・・・<br />
<br />
・・・<br />
<br />
が、しかしである<br />
それをのみ価値とする親は<br />
単にそれらの業務をこなす事が求められているという意識の<br />
延長線より以上の意識をもつ「必要」を知ることがなく<br />
あるいは特別な人格を自らに意識しつつそれらをこなす必要性も感じないものである<br />
その時々を対応しつつ子どもと生きる、その時々に垣間見せる生活上の権限者・・・<br />
それが親であり、それが親の範疇であるのだと<br />
多くの親がそうであり<br />
それが現実なのである・・・<br />
<br />
・・・<br />
<br />
ただし<br />
その様な日常の煩雑な事柄を以って中心とする親は<br />
自らの人間性を直に出しつつ子どもとの生活を送るとした傾向を顕著にみせるものであり<br />
よって対面した、行うべき行為をこなし続ける｢自分」を、超える事が出来なくなる<br />
ここに反映されるのは精神性なのである。が<br />
<br />
「親」という「業務」を施行する、「立場を主体として成立する個人」の視野には、精神性は写らない<br />
親が一個の人格を超えようとせずして自我のまま子育てをするから、子どもの内容（精神）も育たない<br />
然るに、これを以って行為の親と呼び<br />
あるいは<br />
「行為としての親」というものを土台としてその範疇を超えることなく過ごす親が語る「教育」とは<br />
教育ではなく「飼育」のこととなるのである<br />
<br />
・・・<br />
<br />
本質的（理想的）な親は<br />
自らを素直に素地として認め<br />
しかしその人間性を常に見つめつつ一個の独立した人格としてその上に、もう一つの人格（親）を、創る<br />
それが本質的な親の事であり<br />
あるいは<br />
理想や、子どもとの接し方等とした、つまり<br />
親とはかくあるべきであるとした様な事柄も、この気概の上に成立し始める<br />
<br />
子どもから見た親というものは<br />
ただ単なる一つの人格なのであり<br />
つまり親と言えども子供にしてみれば、一人の「人間」なのである<br />
行為としての親の能力は<br />
自戒なくして無益に終わるのだ<br />
<br />
・・・<br />
<br />
自らを上げ、その向上により上塗りされてゆく人間性を以って親たらしめんと<br />
<br />
さかのぼるが、つまり本質的な「親の能力」とは<br />
その人の人間としての、内的な能力（人格）を示唆するべきなのである<br />
]]></content></entry><entry><title>親の自覚</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://oyagaku.j-888.com/?eid=615307" /><id>http://oyagaku.j-888.com/?eid=615307</id><issued>2007-07-14T23:02:12+09:00</issued><modified>2007-07-14T14:02:12Z</modified><created>2007-07-14T14:02:12Z</created><summary>私は、自分が男であるということに対して、偏執的なこだわりというか並以上の自戒意識というか・・・
つまり男として生まれたという事実を以ってそれを
強烈な必然性かあるいは運命的なものであるとして固執している

「覚悟」

とでも言うべきか
つまり男は男であ...</summary><author><name>oyagaku</name></author><dc:subject>教育</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[私は、自分が男であるということに対して、偏執的なこだわりというか並以上の自戒意識というか・・・<br />
つまり男として生まれたという事実を以ってそれを<br />
強烈な必然性かあるいは運命的なものであるとして固執している<br />
<br />
「覚悟」<br />
<br />
とでも言うべきか<br />
つまり男は男であるという事を強く意識しつつ生涯その気概を崩さない<br />
ということに信仰的なこだわりを固めているのである・・・<br />
<br />
然るにそれは浮薄な想像から生まれる<br />
例えば喧嘩に負けないとか<br />
泣かない（この年になると何やら涙もろくなったようだが）などとした事ではなく<br />
仁・義・勇・礼・誠・己克<br />
といった古典的な美徳に基づくものであるのだが・・・<br />
私のこれまでの軌跡が創り上げた性として必然的にそうなった<br />
「知らない」人が「知る」ことによりその内省が飛躍的に向上するごとく<br />
私は<br />
「男としての気概」に対する美しさを知ってしまっている以上<br />
それを生涯に渡って醸成し続けることであろう・・・<br />
以上、前置きであるのだが・・・<br />
そのような気概を持つこのオヤジの基に<br />
一人の男の子が生まれてきた・・・<br />
時、平成十年<br />
長男であるヒロトが産まれた<br />
その頃のことを回想してみよう<br />
<br />
−<br />
<br />
自分の会社を整理している時に生まれてきたのがヒロトであった<br />
数億の負債について債権者と交渉し<br />
あるいは脅迫する者<br />
あるいは嫌がらせを、あたかも楽しみながらしている様な者たちの相手をしている頃である<br />
三十そこそこの経営者である私に対し、それまでヘラヘラしていた輩が<br />
その反動を思いきり満悦するがごとく<br />
彼らは<br />
「債務者という立場にある者は頭を地に着けて泣くものだ」<br />
とした先入観に後押しされてやって来る<br />
会社という有機体の生命力が衰退する事に対し<br />
彼らは善悪論や道徳論を以って説教するのだ<br />
しかし、現実と正論には敵わない<br />
私は、人間の、いや使用人として会社に使われてきた人間に観る劣弱な精神を弄ぶがごとく<br />
軽々しく対応を重ねていた<br />
＜私はいまサラリーマンを愚弄しているのではなく、サラリーマン精神を愚弄している＞<br />
ちなみに<br />
経営者同士（つまり非サラリーマン精神を持ったもの同士）としての話し合いの場には<br />
その様な、稚拙な人間性を以って湧出する感情論は顔を出さなかった<br />
そのときの私は誠意をもって対応したのだが・・・<br />
しかし、いま考え直せば、それらの所業は全て自分の未熟さの表れであったと反省している・・・<br />
<br />
日本が資本主義（経済至上主義）であるのならば<br />
経済社会はもっとクールであるべきだ、との思想は変わってないのだが・・・<br />
・・・<br />
<br />
−<br />
<br />
ヒロトは帝王切開により出産した<br />
ちなみに帝王切開の帝王とは<br />
一国の国士、人民を統治する君主の意味である<br />
ローマのシーザーがこの方法により生まれたという事に基づきこう呼ばれているらしいのだが<br />
ヒロトにその観はない・・・彼は単に、逆子だっただけである<br />
<br />
・・・<br />
<br />
然るに私は、一身上のその混乱の中、よく病院に通い、妻とヒロトの顔をみた<br />
曇りのない、つまり覚醒を意味するヒロトの眼が好きだった<br />
そして<br />
私はいつもこう思っていた<br />
「男として生まれて来たる一人の人間を育てるという責任は、この子に対して持つべきである」と・・・<br />
つまり<br />
ここに生まれて来たる一人の人間は、私の所有物ではなく<br />
あるいは私の指令下に置かれつつ成人を待つ<br />
つまり親というものの相対的な存在としてある二義的かつ下階層に位置づく人格ではなく<br />
独立した実体として自らの人生を持つ同等の存在なのであるのだと・・・<br />
その彼を、固有の存在として<br />
あるいは一個の社会的存在として導くところにある巨大なる責任が私にある<br />
<br />
彼と私の間にあるものは単なる時間のズレであり<br />
線的に連続する人生というものの位相的な差異を以って私は年長であるだけであるのだと・・・<br />
ガラス越しに観るヒロトには<br />
いつも<br />
「俺はお前を育てるという責任を深く自覚しているから、大丈夫だぞ」<br />
と、心で語りかけていた・・・<br />
<br />
−<br />
<br />
魂というものには始まりも終わりもない<br />
人は、生まれ生まれて生の始まりに暗く<br />
死に死に死んで死の先にくらい<br />
これは空海の言葉である（三教指帰）<br />
生まれ変わりというものがあるならば、ヒロトの存在は単一のものではない<br />
つまり私は<br />
早くこの世に生まれてきたという事を活かしつつ我が子にその経験を養分とし<br />
善き者たれと注入しなければならないのだ<br />
「子育ては責任を持ってするべし」<br />
という言葉があるが<br />
その責任とは、誰に対するものなのか・・・<br />
]]></content></entry><entry><title>小倉家の風景・・序</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://oyagaku.j-888.com/?eid=615300" /><id>http://oyagaku.j-888.com/?eid=615300</id><issued>2007-07-14T22:54:30+09:00</issued><modified>2007-07-14T13:54:31Z</modified><created>2007-07-14T13:54:30Z</created><summary>むろん非公式ながらも社会に普遍性をもつ特権階級とでも言うべきか
『小学一年生』
笑顔さえ忘れなければ何でも許されるのではなかろうかという
それをもし本人が自覚していればそれほど便利な立場はないというものの、冠を
我が家の長男が、その証である黄色い帽子と...</summary><author><name>oyagaku</name></author><dc:subject>教育</dc:subject><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[むろん非公式ながらも社会に普遍性をもつ特権階級とでも言うべきか<br />
『小学一年生』<br />
笑顔さえ忘れなければ何でも許されるのではなかろうかという<br />
それをもし本人が自覚していればそれほど便利な立場はないというものの、冠を<br />
我が家の長男が、その証である黄色い帽子と共に押入れにしまう時期が来た<br />
学年が一つ上がるだけのことながらも大きなものを失ったのに<br />
長男の心は弾んでいる<br />
　『ヒロくん（仮名）明日から二年生だよ〜』<br />
本人には毛頭ないらしい。この、特別な小学生から普通の小学生になるとした意識など・・・<br />
・・・<br />
いや、ひるがえってみれば<br />
そんな小難しいことを考えるのは私以外にはいないであろう<br />
しかし、それには理由がある<br />
つまり私は、彼を、親学の生きた実験台にしようとした恣意により<br />
細事に渡り、常に観察しているのである<br />
彼の一挙手一投足は、常にこのオヤジにより解剖されているのである<br />
むろん彼は、父親である私のもう一つの側面つまり<br />
彼との関係をネット上に発信する特別な客観者なのだということを、まだ知らない<br />
・・・<br />
私は、私と子どもたちの関係を『風景』として描写しつつ<br />
そこに「日本人」というものを挿入して子育てというものの正道を立体化させてみようと思っている<br />
人は、自己の経験や具体性や、あるいは論理性や科学性に基づく知識しか受け入れない<br />
責務なのであろう<br />
私のではなく、彼らのである<br />
長男、ヒロト。二年生。<br />
次男、カズキ。年中の、五歳（むろん仮名である）。<br />
そして長女、カズコ。今年中学一年生(同）。<br />
三者三様のキャラクターは<br />
あたかもこの企画すなわち<br />
親学の具体性をノンフィクションで描写するとした目的を<br />
満足させ得るに違いない<br />
・・・<br />
今年の桜は遅いらしい<br />
新一年生の親は気にしているであろう<br />
フト、一年前を思い出す<br />
込み上げる慕情は、しかし特別なものではないようだ<br />
私は、子どもが大好きだ<br />
今も、一年前も変わらない<br />
そんな私である<br />
だから色々な事を考えた<br />
そして<br />
教育に関する常識が実は錯覚であったということを知ったときや<br />
一般的に言われる事柄をもう一歩深めてみたら新しい常識の萌芽に繋がったというようなとき<br />
あるいは他方、翻弄されるべき事柄ではない事に翻弄されている他の親をみたときや<br />
無知なるがゆえに悲惨な行為をしてしまった家族を報道などでみたときなど<br />
いつも、いつもこう思っていた<br />
『知識は、人を救うのだ』と<br />
人には、知っていると思っている事でも本当は理解していなかったという事が、多くある<br />
知っていると思い込んでいる人は、何も知っていないという事に気づかない<br />
哀れな者を観て哀れだと思っている人でも<br />
実は自分が哀れであるということを知っていない<br />
私は、多くの人が自分の内側を整理できることを願って<br />
このストーリーを書き始める<br />
]]></content></entry><entry><title>親学ブログ始動！！</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://oyagaku.j-888.com/?eid=596093" /><id>http://oyagaku.j-888.com/?eid=596093</id><issued>2007-06-24T21:45:42+09:00</issued><modified>2007-06-24T12:46:28Z</modified><created>2007-06-24T12:45:42Z</created><summary>「親」というものを普遍的な存在と捉えるならば、その影響力は、子供のみならず、家庭、社会、国家、そして世界や人類にまで及ぶものである。
親の能力が問われる今の背景には社会全体を歪ませる要核が見出されているという事を内省に加給すべきであり、あるいは政府が家...</summary><author><name>oyagaku</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[「親」というものを普遍的な存在と捉えるならば、その影響力は、子供のみならず、家庭、社会、国家、そして世界や人類にまで及ぶものである。<br />
親の能力が問われる今の背景には社会全体を歪ませる要核が見出されているという事を内省に加給すべきであり、あるいは政府が家庭に口を出すなとしたテーゼは稚拙である。<br />
民主主義の最小単位を向上させることが日本の利益に繋がるという認識を持って欲しい・・・。<br />
私が長らく編纂してきたこの親学は、その名の通り「親のための学問」すなわち教養として価値のある情報を示唆すべく立体化されたものである。<br />
「学問」すなわち普遍的であり科学的であり根拠や立証により保全されている真実を、「親の能力向上の為に寄与せんと」体系化し、情報として提供する。これが目的だった。<br />
<br />
それに対し、２００７年初春、政府が、非学問的な学問としか捉えようのない「親学」を宣揚し始めた。<br />
<br />
子供に子守唄を・・・<br />
子供は母乳で育てるべき・・・<br />
<br />
エマニュエル・カントを引き合いにするまでもなく常識的に学問とは、公に通じる力を持っていなければならないものと言えようものである。<br />
理由や立証や明白な根拠や、あるいは数式などの形式知に頼らなければならない部分が多様にあるということだ。<br />
<br />
子供の就寝時、何Hzの音階、音程により何bdくらいの音、調律を聞かせた場合、それを聞いている子供の前頭葉のどの部分の血流が安定し、脳波がどう変化し、脳内環境がどう変化するから、子守唄を「この様に聞かせることにより」子供の精神的な安定感を増長させることができる（という実験を何年間行った）。<br />
という「情報」・・・<br />
<br />
あるいは母乳には、粉ミルクに無い○○という成分が豊富に含まれており、然るにこの成分は脳または脳幹（これも脳だが）の働きに対し「この様な効果」があるということが実験により判明したゆえに、母乳を与えることができ得る母親は一日に何gの母乳を乳幼児に与えることが理想である。<br />
それにより「乳幼児の将来に○○といった肯定的な要素を見出すことができるであろう」という「情報」・・・<br />
<br />
これが学問でありよって親学ならばこれが必要なのである。<br />
親学不必要論の動力は実は提唱した政府なのである。<br />
<br />
然るに私は、ここ数年来続けてきた親学の方向性について、つまり提供してきた親学の情報の質について、最近、感慨することが多くなってきた。<br />
これから必ず始まる少子高齢化、格差社会、破綻する年金、浮薄化する社会保障制度、デフレ、労働力のスリム化・・・<br />
形而下の、経済やコミュニケーション、あるいは、時に親の娯楽に通じるものをコンテンツとして取り入れ、ないしはテーゼに対し更に力強い揚力を与えるべきではなかろうかと・・・<br />
<br />
２００７年初夏、この様な気概により親学は生まれ変わった。<br />
]]></content></entry></feed>